更新日時: 2009.03.20
カテゴリ: 豆知識
フランス国際農業見本市って?
Marianne
メゾン&オブジェ、プルミエ・ヴィジョン、プレタポルテ、旅行見本市、食品見本市という具合に、パリでは一年中いろいろな見本市(サロン)が開かれている。
その中でも、パリジャンに圧倒的な一番人気、大人も子供も揃って楽しみにしているのが、毎年2月末から3月初旬にかけて開催されるフランス国際農業見本市(Salon International de l'Agriculture)である。
東京ドームの3倍以上ある大きな会場に、大統領をはじめ毎年60万人以上の入場者があり、フランス国内の22の地域と世界各地からの生産者、団体、企業など集まり、農業や食に関連した様々なテーマのスタンドが設けられ、イベント、品評会やコンクール、料理講習会、地方特産品などの試食や販売などが行われる。

パリからTGVに乗り30分も経たないうちに、一面に田園風景が広がることから実感できるように、フランスの国土の半分は農地である。
フランスのGDPの中で農業の占める割合は、わずか3%足らずにすぎないとはいえ、高い技術力、恵まれた気候と土壌から生産性は高く、食料の自給率は100%(ちなみに日本の食料自給率は40%程度)を超えるという。
加えて農産物輸出額で世界第8位、小麦の輸出は世界第4位、とうもろこしは第3位、チーズは第2位。
こんなふうにフランスは、EU域内で生産される農産物の2割以上を占める、EUきっての農業大国なのである。


サロンに行ってまず目を見張るのは、その規模と人の多さである。
牛、羊、山羊、馬、うさぎなど4500頭を超える家畜が運び込まれて、ポルト・ド・ヴェルサイユ展示場はにわかに農村風景に早変わり。
市民や子供は実際に動物に手を触れることができる上、いろいろな体験やクイズのコーナーなども設けられている。普段パリコレなどで同じ会場に来ることが多い筆者には、ここが同じ場所とは信じ難いくらい。
パリ=フランス=モードと芸術の国ではない。それぞれ個性豊かな地方から成る農業大国、これもフランスの顔である。
世界に冠たるフランスの美食文化を支える基盤は農業であり、食料の自給率の高さは間違いなく国力の一部でもある。
今年で46回を迎えたフランス国際農業見本市。食の安全供給、環境問題、気候変動などが危機感を持って語られる昨今だが、このサロンが変わらずに多くの人々に広く愛されているのは、フランス国民が農業を心から大切に思い、何よりも国土の豊かさに対して誇りを持っていることの表れなのだろう。
更新日時: 2009.03.06
カテゴリ: 豆知識
春のきざし
Miwa.M
2月24日は、マルディグラというお祭りの日だった。この日は、キリスト復活のイースターから47日遡った日。昔はこの翌日からイースターまでは肉断ちで暮らす期間だったため、その前にご馳走食べてパーっとやりましょう、という中世から続くカトリックのお祭りで、謝肉祭とも言われる。
今ではその名残はほとんどないけれど元は宗教行事なので、毎年この時期に(移動祝祭日のため、年によっては3月初旬のこともある)フランスだけでなく、世界のあちこちのカトリック国で華やかなお祭りが行われる。リオやヴェネチアのカーニバルも同じ伝統から来ている。
フランスの中では、ニースのカーニバルが盛大で、青空と黄色いミモザを背景にした南仏の祭りの様子のTV中継は、パリっ子にとって“春のお知らせ”のようなもの。まだまだ寒いパリにいながら、「ああ、じきに長い冬が終わるんだなあ」と、うれしくなる。

パリに暮らすと、冬の長さのせいで、そしてその日照時間の短さのせいで、春の到来を本当にありがたく感じる。3月から4月にかけて時折訪れる晴天の日には、多少肌寒くても競ってカフェのテラスに出て、思いっきり太陽の光を感じたくなる。街路樹のプラタナスに花が咲き、住宅街ではリラの花が香る5月から6月になれば、公園の芝生の上で寝ころびながら日光浴。カフェはもうテラス席から埋まっていくようになる。
うつ病の治療のために、患者に光を当てる方法があるそうだけれど、人間にとって太陽光のもたらす影響は思いのほか大きいのだろう。
春のパリは、マルシェの野菜や果物、空の色、街路樹の緑など冬の間潜んでいた鮮やかな色が一気に戻って来る。そして空や緑のまぶしさに比例して、道行く人々の表情も明るくなっていく。

本当の夏になれば、パリっ子はもうパリのことより、ヴァカンス先でもっと強い太陽を感じて一年分のエネルギーをチャージしようと、気もそぞろ。
いくら紫外線の怖さを聞いていても、冬の長い地では本能的に太陽はありがたく、日陰へ行く気持ちになれないのは、長くここに住むとわからないでもない。
9月になると、もう木々は黄色や茶色に色づき始め、やがて落ち葉となってブーツの足元でカサカサと秋の音を立てる。マルシェには暖かな土の色をしたキノコや栗が並び、紫色の葡萄が差し色を加える。そしてだんだんとまた、街が淡いグレーの霞に包まれる冬の日々に入ってゆく。
フランスの学校の新学期は9月、暦の上でも新年は1月1日。それでもパリっ子にとって春の陽射しは、長い冬の後の、夜明けの光のように感じられる。ここから新たな日々が始まっていく。今月の最終日曜日には時計の針を1時間進め、サマータイムに。
各地での明るいカーニバルは、そんな気持ちにエールをおくる新年のお祝いのようだ。
筆者の記事は今回で終了します。長い間のご購読、ありがとうございました。
皆さまにとりましても、この春が新たな輝ける日々へ向けての出発となりますよう。
更新日時: 2009.02.20
カテゴリ: 豆知識
フランスの異郷、コルシカの思い出
Marianne


相変わらずパリは寒く、今週も少し雪が舞った。
それでも夜明けが少しだけ早くなり、ほんの少し日が長くなった。春が来るのを指折り数えて待つ今日この頃。今回も、気分だけでも冬のパリを脱出して、夏の終わりを過ごしたコルシカ島の思い出を綴ることにする。
“美しき島 (l’ile de bauté)”と呼ばれるコルシカは、フランス人でさえ行ったことがないという人が多いが、一旦足を踏み入れるとその手つかずで荒削りな魅力に病みつきになり、繰り返し訪れるようになるという、いってみればフランスの秘境。
ナポレオンの生地でもある首府アジャクシオ、経済の中心地で北の主都バスティア、北西部の港町カルヴィには、パリから直行便が飛んでいる。
ニースやマルセイユなどから船も出ているが、所要6~8時間。島南端から南にわずか5キロに位置する双子のような島、サルディニア島はすでにイタリア領で、ニースの南約180キロ地中海に浮かぶこの島がすでに、フランスの異郷であることに納得がいく。
昔、大学の語学の授業で少しだけコルシカ語を取ったことがある。来仏して日が浅く言葉のハンデがまだ大きかった上、他の学生の多くがコルシカ出身あるいは両親あるいはどちらかがコルシカ出身者だったこともあり、授業のペースについていけず早々にドロップアウトした。記憶に残っているのは何だかイタリア語のような言葉だなあと印象のみ。実際、コルシカ語はイタリアのトスカナ方言に近いと言われる。また、金髪・碧眼のフランス人は少ないが、コルシカではそれに比べて意外に多い。これも古くからカルタゴ、ローマ、ゲルマン、サラセン、ピサ、ジェノヴァと、様々な外敵の侵入が繰り返された歴史がもたらした混血の結果だという。またコルシカをフランスに併合した皇帝ナポレオンは、意外に地元で人気がない。むしろ最大の英雄は、“コルシカ建国の父”パスカル・パオリである。

コルシカの独立運動など民族主義の強さはよく知られるところだが、人々は自らのアイデンティティはあくまでコルシカ人であり、フランス共和国の一部に行政的に属するのみと考えている。この土地を旅して現地の人と語り合う時、間違っても彼らを「貴方達、フランス人」と一括りにしてはいけない。途端にいやな顔をするだろう。ゴッドファーザーのルーツ、シチリアに通じる激しい気性の地中海気質はパリジャンのアグレッシブさとはまた異質だ。
一方、信号もない田舎道で道路渋滞に出くわすことがある。いったい何だろうと思うと、反対車線を走ってきた知り合いとお互いに道路の真ん中で車を止めて、長々と世間話。後続車はしびれを切らしてクラクションを鳴らす訳でなく気長に話が終わるのを待っている。こういう光景は日常茶飯事、情の厚さが尊ばれるあくまで人が中心のスローライフなのだ。それもあってか生産性は低く、その経済の多くの部分は国の援助金に頼るのが現状。離島であることから物価も高い。

私が旅したのはバスティアから南に約60キロ、島の東海岸のアレリアという地域。風光明媚な西海岸に比べると海岸線の変化に乏しく、比較的平坦でモーパッサンの“海から聳える島”のイメージからも程遠い。
庶民的なビーチとローマ遺跡(昨年末、集中豪雨による被害を受けたという)、ワインの栽培地。最近ではディアーヌ湖で牡蠣の養殖も行われているという。


海に囲まれながらも、コルシカの伝統的な食文化は栗と豚・山羊を中心とした畜産物が中心平地が少なく小麦の栽培に適さないことから、栗が長く主食となっていたが、栗のクッキーやケーキも素朴な味わいで、ヤギチーズのベニエ(天ぷら)も意外な美味しさだった。


初めてのコルシカへの旅は、地元の人との出会いやフランスと異質なコルシカ文化を垣間見ることであっという間に終わってしまった。次回はぜひ、南北に伸びるコルシカ鉄道に乗り、“美しきの島”の魅力を存分に満喫してみたいと思っている。
更新日時: 2009.02.06
カテゴリ: 豆知識
結婚
Miwa.M

春の気配はまだまだ、雪空のような雲が低く空を覆う2月のパリ。
グレーの街に今月は、赤いハートのヴァレンタイン・デーの装飾と、そしてウエディングの広告が目立つ。
年も明けて少し落ち着いた2月は、恋人たちにとっては、ヴァレンタインだけでなく結婚式のことを考え始める月でもあるらしい。
フランスでは、結婚式の7割以上は年で最も美しい季節6月から9月に挙げられるので、そろそろ準備を、という時期なのだろう。


出産率の高さでは、数年来先進国の中でもトップレベルを誇るフランスだけれど、結婚率は横ばいだ。
結婚する年齢も、他の先進国同様毎年着実に遅くなり、2007年の平均初婚年齢は、男性32.4歳 女性は30.2歳。男女とも30代までは独身でいるのが普通になってきている。
(2000年は男性30.7歳 女性28.6歳だった)
フランスの結婚式は、延々と食べ、飲み、語り、踊る。(クリスマスなど家族が集まるイベント時お決まりのコースなのだけれど)当地での一般的な結婚式では、まず入籍のため市または区役所へ行く。そこで、新郎新婦の証人(友人や家族・親戚が一般的)一名ずつと、トリコロールのたすきを掛けた市・区長が立会い、新郎新婦自身で入籍のサイン。日本の婚姻届提出にあたるこの部分は、実際はただの事務手続き。けれど、フランスでは結婚の間(salle de mariage)という市・区役所には必ずある立派な空間で、家族や友人も列席し、セレモニーっぽく粛々と執り行われる。

それから、カトリック信者の場合はたいてい区役所の隣にある教会での神父さん立会いの式。(最近は信者であっても宗教離れか、この部分がないことも多い)写真撮影などの後、列席者もみな其々の車に乗り、列になって披露宴会場へ移動。(この間、喜びのクラクションを鳴らしまくる場合が多い)会場では立席でシャンパンの乾杯から始まり、食事が出てくるのは夜もすっかり更けてから。シュークリームを高く積み上げた伝統的なウエディングケーキがデザートとして出るのが深夜で、それからダンス・・・。明け方までがんばった面々には、オニオン・グラタンスープのおやつが出てくる。

ご祝儀は、新郎新婦がデパートなどで選んだ品々のリストを見て、列席者がそれぞれの予算に見合った品物に相当するお金を贈るリスト・ド・マリアージュが一般的。引き出物は一般的にはない。スピーチもお色直しもなく、肩はこらないが、とにかく約12時間にわたる、全員参加型パーティ。後半はほとんど体力勝負で、たいてい翌日は寝たきりに。それでも、多くのフランス人はこういうスケールの大きな(?)お祝い事が大好きで、結婚式に招待されて嫌な顔をすることは、あまりない。

しかし、そういう式をしない、つまり入籍しないカップルもフランスには大勢いる。出生率の高さに話を戻せば、そのうち非婚カップルから生まれる子供の数は、出生数全体の52%を占め(2008年)、結婚しているカップルより多いのだ。
結婚しないことも、多くのカップルの選択肢であるここでは、ウェディング・ビジネス業界の競争は、けっこう厳しいのかもしれない。
更新日時: 2009.01.23
カテゴリ: 豆知識
厳寒のパリから、南仏を想う
Marianne

今年の年明けは雪景色だった。
パリで雪が積もった風景を見ること自体が珍しい。
その厳しい冷え込みの中、パリの中心部サン・ルイ島では、ほとんどの地域が大晦日の夜から元旦にかけて、停電に見舞われたということである。
島内のほとんどの建物が旧建築のため、氷点下の中、照明も暖房もなくお湯も使えず、サイ・ルイ“島民”たちは大騒ぎだったらしい。中でも一番気の毒だったのは、新年を祝うため大晦日にレストランのテーブルを囲んでいた大勢の客と、稼ぎ時をフイにしてしまったレストランの経営者達たちかもしれない、というのが“島民”である友人の弁である。
昨年11月末、ニースに出張したとき、同様に停電に見舞われた。激しい雷雨の土曜の夜であった。翌日がチェックアウトであったが、建物全体の停電のためクレジットカードの端末が使えない。復旧後に遠隔操作で引き落としてもらうようにして何とか事なきを得たものの、今回は雨天続きで明るい太陽にほとんど無縁だった。ホテルのパトロンの話によると、11月中旬も突然の集中豪雨のため、コート・ダ・ジュールからボルドーあたりまでの国鉄がマヒらしい。この異常気象、やはり地球温暖化の影響なのだろうか。
とにかく、年末からずっと凍りつくような日が続き、連日氷点下のまるで冷蔵庫のような寒さ。ここ数日、若干寒さが緩んでいるものの春はまだ遠い。せめて思いだけでも南仏に馳せて暖かい気分になってみたい。
パリからニースまで飛行機で約1時間半。空港のバスターミナルからバスに乗ると、やがて紺碧海岸が目に入ってくる。海岸沿いの英国人の散歩道(プロムナード・デ・ザングレ)と呼ばれる全長3.5kmの遊歩道は、夏にはカラフルなビーチ・パラソルで埋め尽くされる。名前の通り、保養地としてのコート・ダ・ジュールの魅力を最初に見出したのは英国人だと言われ、ベルエポックには多くの北ヨーロッパの王侯・貴族が競うようにして太陽を求めてこの地を訪れた。
その時代に建てられた多くの瀟洒な別荘ひとつが、現在、ニースを代表する高級ホテルになっているネグレスコである。やがてバスは空港から20分ほどで市内中心、マセナ広場近くに到着する。新市街と海岸に挟まれたエリアが旧市街で、高級リゾートのイメージとは一味違った庶民的な魅力がある。迷路のような路地で地方特産物を扱うブティックをひやかしながら、ニース料理を味わえるレストランを物色するのが楽しいだろう。
ニースから1時間足らず車を走らせるとそこはもうモナコ。ニース空港からヘリコプターでのモナコ・インも可能だ。所要約7分。またイタリア国境まで車で約15分。モナコの国土はわずか1.95k㎡、ヴァチカン市国に次いで世界で2番目のミニ国家である。三方を山(仏領土)に囲まれた地中海に面する狭い国土に所狭しと建物が林立する風景は、何となく香港を思わせる。ミクロクリマのおかげで、年間の日照は約300日というからうらやましい限り。



F1グランプリ、ケリー・バック、億万長者のクルーザー、カジノと、モナコのイメージは華やかで非日常的だが、王宮の高台から見下ろす、モナコ湾の眺めはいつ見ても最高。
パリの寒さに耐えかねた時、ウィークエンドに南仏で少しばかり暖まってくるのもいいアイデアだと思う。
更新日時: 2009.01.09
カテゴリ: 豆知識
Miwa.M
歴史の渦に翻弄され、処刑台で人生を終えたフランス王妃は、マリー・アントワネットだけではない。
1587年2月の凍てつく英国で、熱狂する観衆をその気高さで圧倒しながら、真っ白い首に斧を振り下ろされたその人も、その美貌と愛らしさで宮廷中を魅了したフランスの王妃だった。
フランス語ではマリーと発音するが、母国語の英語ではメアリーと呼ばれるメアリー・スチュワートは、1542年にスコットランドでスコットランド国王ジャック五世と、王妃マリー・ド・ギーズの間に生まれた。母マリー・ド・ギーズは、フランスの名門貴族ギーズ家の出身で、メアリーにはフランスの血が半分流れていた。
生後6日後に父王が他界、その時点で王には他に子がなく、一人娘の彼女はスコットランド女王となる。
そして5歳の時、彼女は母の実家であるフランスの皇太子との婚約のため、フランスへ渡る。その頃ヘンリー8世が治世するイングランドがもくろんでいたスコットランド併合を欺くための、政略結婚だった。
メアリーは少女のころからとても魅力的だったようで、当時ヨーロッパの中でも最も華やかだったフランス宮廷でも、彼女の美しさ、頭の回転の速さ、品の良さは称賛の的だった。人々を魅了しながら、ルネッサンス期の文化の香り高いフランスで、少女彼女はますます洗練されていった。

1558年、15歳のメアリーと14歳のフランソワ二世の結婚式が、パリのノートルダム寺院で挙げられた。式は、後のマリー・アントワネットとルイ16世のそれを思わせる絢爛豪華な世紀の祝典だった。
その婚礼から1年しかたたない1559年、フランソワ二世の父であったアンリ二世王の急死によって、突然二人はフランス国王・王妃になる。
しかしその16か月後、生来病弱だった夫のフランソワ二世も病死、わずか18歳で寡婦となったメアリーはフランス宮廷に居場所を失い、スコットランドへ帰還する。
もう祖国と言っても過言でないフランスの陸影がその視界から消えさるまで、メアリーは船の甲板から離れられなかったようだ。

そんな少女時代だけでも十分にドラマチックだが、13年ぶりに祖国スコットランドの地を踏んでからこそが、本当の悲劇の始まりだった。
その後の激動の詳細はここでは記さないが、スコットランドと敵対していたイングランドの女王、エリザベス一世との確執の影響は大きかった。
晩年のメアリーは、イングランドで18年間幽閉された後に、従姉でもあった9歳年上のこの女王の命令で、斬首刑に処される。女王による女王の処刑。
真紅のドレスで断頭台に向かった元フランス王妃は、44歳であった。

メアリーのあまりに劇的な生き方と死に様は、今までも数多くの歴史家や作家の創作意欲を刺激し、世界中で書物、映画などがつくられてきた。
なかでも <マリー・アントワネット> の作者ステファン・ツヴァイクの <メリー・スチュワート> は、彼女の人格を宿敵エリザベス一世との比較で描き出している秀逸な作品だ。
フランス貴族とスコットランド王家の血統を、現英国王家にまで引きついだ(メアリー・スチュワートが残した一人息子はエリザベス1世の崩御後イングランド王となり、エリザベス二世のウィンザー家には、スチュワート家の血が脈々と流れている)メアリー・スチュワートの足跡は、彼女が13年間という多感な少女時代を過ごしたフランスにも、鮮烈に残されている。

現在、450年前のフランソワ二世とメアリー・スチュワートの結婚を記念し、パリ郊外のシャトーで
≪マリー・スチュワート展≫が開かれている。
フランス、スコットランド、イングランドの複雑に絡み合った歴史と、その渦中で一人の女性が背負わされた運命。
今日のヨーロッパが経てきた、長い長い過去に思いを巡らせる。
Musee National de la Renaissance(Chateau d’Ecouen )

パリの北20kmの郊外にある中世ルネサンスの古城で、英国王室などから貸し出されたメアリー・スチュワートの肖像画、フランス国立図書館所蔵の文書など100点余りのオブジェが展示されている。
(火曜休館 6.50ユーロ 2009年2月2日まで)
http://www.musee-renaissance.fr/
(仏語サイト)
更新日時: 2008.12.26
カテゴリ: 豆知識
フロリストという仕事
Marianne
フロリストのマリカに出会ったのは、今から8年前のこと。ガイドブックのコラム執筆のために、オープンしてまもない彼女のブティックを取材させてもらったのがきっかけであった。彼女は現在も、お姉さんのファリダとマレ地区にあるブティックを切り盛りしているが、花屋というより、クリエイティヴなフラワーアーティストといった方が相応しい彼女は、イヴェントや撮影、結婚式、個人の邸宅やブティックの花の活け込みなど、もっぱら外で仕事をしていることが多い。
幼い頃の隣人がお花屋さん。ヴァレンタインデーやメーデー、母の日に仕事を手伝っては、お小遣いをもらい可愛がられた。そしてある日、ついにランジスの花市場へ連れて行ってもらえるようになった。大きな壁のように積み上げられた無数の美しい花たちの群れを前に、マリカは文字通り息を飲んだ。この時、12歳。大人になったらフロリストになりたいとはっきり意識したという。以来、彼女はランジスにちょくちょく顔を出すようになる。

ランジスでは真夜中に花が運び込まれ、4~5時にセリがスタートする。そして終了後は、皆で楽しく雑談をしながら一杯やるのがお決まりだった。当時は栽培者達もほとんど親子2代で来ており、市場の中のバーやカフェでセリ落とした花の手入れの方法を詳しく聞くことができたという。「市場全体が温かい家族的な雰囲気に包まれていた。」 現在はまるで株の売り買いのように、現物を見ずオランダの栽培者から“ブロイラーように育てられた”花を買い付けるなど、万事が機械的になり、昔のよさが失われた。例えば、バラ専門のチェーン店“Au Nom de la Rose ”で売られている花束の質が落ちたと言って、取引をやめてしまったバラ栽培者さえいるという。 「少々割高でも、荒れた手をした地元の栽培者から丹精込めて育てられた花を買いたい。」と彼女は語る。
87年、マリカは16区の有名フロリスト、リリアンヌ・フランソワで働くようになった。十数年の間にジョルジュ・フランソワ氏の愛弟子として、サンローラン、ラクロワ、シャネル、ケンゾーなど、多くのデフィレの仕事も経験した。この頃、週1度イヴ・サンローランの私邸に花を活けに行くのも彼女の仕事の一つだった。当時20代の彼女は、毎週憧れのグラン・クチュリエに会って、話をするのが大きな楽しみだったという。文字通りのべル・エポック(美しき時代)。当時の著名クチュリエのデフィレやパーティは、例外なく豪華な花あしらいが常であったが、今ではすっかり様変わりしてしまったという。新興成金ロシア人やサウジアラビア人は、シャンパンや毛皮、ダイヤモンドに大金を払ったとしても、花を愛でる文化を持ち合わせていないのだろう。
マリカとはアラブ語で王妃という意味だそうだ。その名が示すとおり、彼女はモロッコ系フランス人。マグレブにルーツを持つ故、普通のフランス人の2倍以上の努力をしなければならなかったという。来年はブティックとかつて厩舎であったサンルイ島に近いアトリエ、Mais C’est çaをお洒落な写真スタジオのように改装する予定だ。将来の夢について尋ねてみた。魔法のように素晴らしく同時に儚い、フラワーアレンジを通じて人々を夢見る気持ちにしたい。幸福にしたい。できればフラワーアレンジやアール・ド・ヴィーヴルを教える学校を作り、人を育てたい。様々な人々や職業の間で交歓が生まれるような場所にしたいという。いずれにせよ「愛がなければ、いかなる成功はありえない」と、彼女は繰り返した。
Création Florale Comme Ça http://www.comme-ca.fr
更新日時: 2008.12.12
カテゴリ: 豆知識
パリの冬、街の風景
Miwa.M
今年もパリは、もう何度か雪がちらつき冬本番。
寒い冬といえばクリスマス。フランスではこの日はレストランなどで外食するのではなく、日本のお正月のように過ごす。家族や親戚で母親の手料理を楽しみに集まって語りあい、プレゼントを交換する。おそらく多くのフランス人が、一年で最も強く家族の絆を感じる日だ。
そのせいかもしれない、この時期になると彼らの多くは、そんなクリスマスを過ごすことの出来ない人々に思いをはせる。TVや新聞でも、このところ低所得層やホームレスの人々にとっての冬の厳しさがひんぱんに報道されている。

特に今年の冬は、数か月前からの世界的な不況の影響も大きい。路上生活をしないまでも、フランスには、月収880ユーロ(約10万円)以下のいわゆる低所得層とされる人々が約700万人もいる。(フランス全体の人口を約6000万人として、その1割以上)
無料の食事サービスや食料の無料配給をしている団体の話でも、今年の配給希望者数は、今までと比較にならない率で増加しているという。この冬の寒さは、社会の底辺で暮らす人々にとって、例年以上に厳しい。
こういった状況を受け、サルコジ大統領は12月に入ってから、パリ近辺の軍の宿舎の1000床のベッドをホームレスの人々のために提供することや、彼らの支援活動を行っている市民団体への、援助金の大幅増額などを発表した。しかし、政府がどんなにがんばっても、例えば1千のベッドでは、路上で凍える全ての人々にはとうてい足りない。


だから個人個人が彼らのことを気にかける。
TVの天気予報でその晩の寒さを予報するときには、「寒そうにしているホームレスの人を見かけたら、ここに電話をし救急隊を呼んでください」と、夜間にホームレスの人々に毛布やスープを配り医療手当やその夜の宿泊所の手配等をする、民間団体の電話番号を付け加える。
先日の寒い朝に、パリ市内である無名のホームレスの遺体が発見されたというニュースはメディアでも大きく取り上げられ、葬儀には100人をこえる市民が参列した。
世界一の観光地パリが、外国人へ街の印象を与えてしまうメトロの駅やデパートの脇に、彼らを放っておく他に手段はないのだろうか。なぜメトロの職員は彼らを追い出さないのか。
多分それは、弱者を社会から排除するかしないか、という思想とつながっている。物乞いやホームレスの人々がそこにいられるのは、彼らを、もっと努力して仕事を探すべきではないかと責めずに、イメージが悪いと追い出さずに、同じ人として、そのままを受け入れる、周りの人々の気持ちがあるからだ。
恵まれた人立場にある人が、恵まれない状況にある人をたすけることはあっても、邪魔者扱いする、という思想はフランスにはあまりない。実際、彼らに施しをする人はとても多く、それも日常風景になっている。

寒い夜も路上で越さざるをえなくなった人々。その現実はきっととても厳しいものけれど、彼らがそこにいられるのは、その孤独を気づかう人々も、存在するからだ。
物乞いやホームレスの人々が堂々と大通りにいられる街の、懐の深さを思う。
更新日時: 2008.11.21
カテゴリ: 豆知識
エコなパリ、BIOなパリその3:
パリジャンのデトックスとリラクゼーション考
Marianne
「昔からヨーロッパ社会では、鉱泉水を利用した温泉治療が盛んに行われてきました。日本にも湯治場などがありますが、あるがまま水の恵みを自然の中で満喫することが中心。近年ヨーロッパでも、治療よりもまずリラックスを目的としたスパ人気が高まっています。」
と自らが代替医学の治療師(thérapeute)であり、美容と自然療法のジャーナリストであるガリヤ・オルテガは語る。
「パリの人々は食べ物、化粧品、マッサージなどあらゆる面で、より自然なもの、より体に優しいもの、より奥が深いもの、“本物”であることに強いこだわりを持ち始めました。それは、今から3年程前、2005年頃からです。」
ⓒ Le bio

オーガニック食材の専門店ナチュラリア、スーパーマーケット・モノプリのBIOコーナーなどが、パリの街に登場したのはその時期かもしれない。
今日、BIOは一過性のファッションではなく、“持続する未来への選択肢”として日常生活の中にしっかりと根付いている。
ⓒ Le bio

自然派志向の画家の友人に誘われて、パリの西側郊外の高級住宅地ブローニュにある、オープンして1年前のウェルネス・サロンに行ってみた。地下鉄9番線のマルセル・サンバからわずか50m、デトックスとリラクゼーション、身体機能の強化をコンセプトにしたヨーロッパ初のサロンだという。このあたりは前出のナチュラリアの大きな店舗などもあり、私が住んでいるマレ地区もそうだが、地元住人の自然派志向が伺える。サロンの入口に入るとまず目に入ってくる、白壁に映えるケ・ブランリー美術館の壁のような植物のタブロー(オブジェ)が印象的。今のパリの空気を感じさせる空間だ。
この日、指宿の砂蒸し風呂をヒントにしたという遠赤外線サウナ“癒しドーム”(もちろん日本製)を試してみた。施療室はすべて個室になっており、高級エステサロンのような雰囲気が味わえる。早速、洋服を脱ぎドームの中に入る。ホットヨガで高温多湿に慣れているから平気と思っていたが、結構暑い。頭はドームの外なので上せる心配はまずないが、フランス人には結構辛いかもしれない。最初はさほどでもなかったが、15分くらい経つと玉のような汗が噴き出して、30分経って終了する頃にはほとんど滝のような状態。


ドームを出た後、冷タオルで汗を拭きとって、保湿効果のあるローション・ジェルを全身に塗った後、ミネラルウォーターをたっぷり飲んで終了。
30分の施術で最大約600カロリーの消費が可能だという。ちょっとした岩盤浴気分が味わった上、体が芯から温まり足が軽くなった。もちろん単なるリラクゼーションだけでなく、デトックス、痩身、アンチエイジング、免疫力の向上など、定期的に行えば様々な効果があるという。

施術終了後は100問余りにわたる問診票による健康チェック。私の場合は今のところ、いたって健康だが、唯一パソコンと携帯電話の長時間使用による放射線の影響に注意が必要とのこと。
癒しドームの他にも、エステやマッサージ、クリスタルテラピー、オステオパシーなどのコースがあり、各種自然派のサプリメントなども扱っている。
次回は是非、チャクラのバランスを整えてくれるという、クリスタルテラピーを試してみたいと思っている。
VITAL CENTRE DE BIEN ÊTRE ET DE DETOXINATION DE L’ORGANISME
www.vitaletvous.fr
更新日時: 2008.11.07
カテゴリ: 豆知識
シスター・エマニュエル
Miwa.M
10月20日、多くのフランス人に敬愛されていた一人の女性がこの世を去った。
享年99歳、葬儀は本人の希望で簡素に済まされたが、同じ日パリのノートルダム寺院で荘厳な追悼ミサが行われ、TV各局が生中継。サルコジ大統領、シラク前大統領ら政界の要人多くを含む3000人が参列し、寺院前には4000人もの市民が集まった。
ⓒ ciric / la Croix
1908年、ベルギーのブリュッセルで、母はベルギー人、父がフランス人の裕福な家庭に生まれたこの女性は、23歳で修道会へ入信しシスター・エマニュエルという名に。(彼女が先月息を引き取ったのは、このとき入信した修道会Notre Dame de Sion付の養老院)シスターとなってからは、トルコ、チュニジア、エジプトで、教師として文学を教えながら、地域の恵まれない人々の援助に尽力。
ⓒ AFP
そして63歳の時、教師業を引退すると同時に、カイロのスラム街に単身飛び込む。
<その臭い、不衛生さ、その極度の貧しさは、怖れを抱かせた>、と後にシスターは記しているが、だからこそ <これに耐えている人間がいるなら自分にも> と、宗教も言葉も違うエジプトのスラムの掘立小屋での一人暮らしを始める。
ⓒ ciric/ la Croix
彼女はまずスラムの人々と生活を共にして苦しみを分かち合い、そして子供に読み書きを教え、簡単な診療所を建て、一人でできることを一つ一つしていった。
約10年後、シスターの地道な活動は、政府団体等の関心を集めるようになり、そこには学校や病院、そして固い壁のある家らしい家が一軒、また一軒と建っていくようになった。
ⓒ ciric/ la Croix
1986年には、asmaeという協会が創設されて活動を継承し、シスターがスラムを後にしフランスに帰国したのは85歳の時だった。22年間もの間、彼女は、自らの体力、気力の衰えも顧みず、誰もが見て見ぬ振りをし、社会の最低層に追いやられた子供たちの側を、まるで子を守る母のように、離れなかった。
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「彼女は私たちがすべきことを実行した」 と、ミサの参列者が言った。
彼らの言葉や表情から、尊い人間が私たちの中にはいた、というフランス人としての誇りと、喪失感が伝わってくる。
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帰国後も、貧困の存在に人々の関心と愛を向けようと尽くしたシスターは、最後の最後の日々まで活動をやめなかった。亡くなる5日前にも車椅子と酸素チューブ姿で、日刊紙のインタビューに応えている。きっと、「もうよろしい、十分に役目を果たした」 と、天からのお迎えがあったのだろう。
100年目を目前に、シスターはやっと、果てしない闘いの日々から解放され、ヴァチカンは、カトリックの修道女でありながら、宗教も国境も飛び超え“子供たちの母”として生きた彼女を、マリー・テレザに並べ、その死を悼んだ。
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